何故畿内説か九州説か?
1.九州説が、正しい
 畿内説では日本建国は古事記や日本書紀をまともに読めば、紀元前660年1月1日(旧暦2月11日)であり、当時の魏の使いは、日本の中心だった邪馬台国=大和国に来たことになる。であれば必然的に奈良が中心であることになる。
 その場合、日本はすでに統一されていたことが、証明される。が、九州説では、まだ日本は統一されておらず、邪馬台国は九州の一国家であることになる。 それは、古事記や日本書紀の作者が、苦労して各天皇の生存年月や在位を非常識に長くしたものを無駄にしてしまうからだし、古い国家であることを否定してしまうことになる。
 また、畿内説では、3世紀以後の古墳、出土品が多いこと、九州説からは、3世紀後半からの古墳、出土品が極端に少なくなっていることも論拠としてあげている。が、これも、おかしな話である。この後、解説していくが、3世紀後半から4世紀前半にかけて九州にあった邪馬台国が、神武天皇によって、東征したことの論拠になっていることを無視している。 日本の出土品で有名な(中学で教わった)銅鐸文化(東日本)と銅矛文化(西日本)の違いは、広島、岡山の間くらいから、四国の東と西で分かれており、文化圏が異なっていたことを思い出せば、明らかに銅矛文化のほうが、戦争には有利であるから九州文化が、畿内文化圏に進行したことも簡単に想定できる。
 その上で、九州文化の畿内進出があれば、3世紀以後畿内での出土品が多くなるのはうなずけるし、九州の出土品が少ないのも当たり前となる。引越し前の所在より、引越し先での生活跡が多いのは常識であろう。


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